リンカーン と斧の逸話『もし8時間、木を切る時間を与えられたら、そのうち6時間を私は斧を研ぐのに使うだろう。』の名言に学ぶ!効率的な時間の使い方




時間の切り売りはしない。

 

どうも、Daichiです。

今回は、奴隷解放の父として有名なリンカーンの斧の逸話の名言から学ぶ、効率的な時間の使い方を紹介します。

 

アウトプットには、価値が継続するものとしないものがある。

価値の継続性については、資産形成や仕事をして上でとても大切な考え方になります。

 

人生の時間は限りがあります。

だからこそ今取り組む時間で得られるアウトプットに価値の持続性を持たせることが効率的な時間の使い方です。

 

では、まずリンカーンの名言から紹介します。

リンカーンの斧の逸話の名言

 

もし8時間、

木を切る時間を与えられたら、

そのうち6時間を

私は斧を研ぐのに使うだろう。

 

リンカーンの概略

弁護士、イリノイ州議員、上院議員を経て、第16代アメリカ合衆国大統領に就任した人です。

「歴代アメリカ合衆国大統領ランキング」において、しばしば「最も偉大な大統領」の1人に挙げられます。

世界的に有名な演説である「ゲティスバーグ演説」において、「国民の国民による国民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである」と言う民主主義の基礎を主張したことや、アメリカ合衆国南部における奴隷解放、南北戦争による国家分裂の危機を乗り越えた政治的業績、リーダーシップ等が、歴史的に高く評価されています。

このことから偉大な解放者、奴隷解放の父と呼ばれます。

 

研がれた斧は長く使える!価値が持続するモノをつくる

リンカーンの略歴を見ると、その偉業をなした数の多さに圧倒されます。

 

こんなにも、事を成せる人がいるものか??

 

でも、リンカーンの人生は、全てが上手くいった訳ではありません。

むしろ波乱の人生と言えます。

 

失敗してきたからこそ、努力をしてきたからこそ、成功させることを常に考え、試し、挑み続けたのです。

だからこそ、リンカーンの考える時間の使い方はみごと。

 

名言を噛み砕き、見えてきた時間の賢い使い方を紹介します。

 

再度名言を参照。

「もし8時間、木を切る時間を与えられたら、そのうち6時間を私は斧を研ぐのに使うだろう。」

 

 

斧を研ぐ:未来を予測した準備をかねる

リンカーンはなぜ斧を手にしてからすぐに使い始めずに、斧を研ぐ時間をとるのでしょうか?

 

ボロボロの斧でも時間をかければ、木なら、いずれ切り倒せるかもしれません。

目的は木を切ることなので、OKですね。

 

しかしその直後、鹿が現れたらどうでしょう?

ボロボロの斧で叩いて仕留められるでしょうか?

 

それは厳しいですよね。

結局、目的の木は切ることができるかもしれませんが、それ以上を求めることが難しいでしょう。

 

斧の切れ味を高める:未来に備えながら今の精度を高める

そしてリンカーンが斧を研ぐ理由は、将来のことを見据えて準備をしつつ、今の力も向上することができるからです。

 

刃を研ぐ時間をつくって、鋭い斧にした後に木を切っていたらどうでしょう。

もちろん、木を切る時間は短くなります。

さらに、研がれた鋭い斧を使って鹿を仕留めることができる可能性は、ボロボロの斧に比べて飛躍的に高まります。

 

リンカーンの考え方では、目の前の目的の木を切ることはクリアできると共に、将来に起こりうる未来の可能性を予測して価値づくりを同時にするという非常に効率的な時間の使い方なのです。

時間の使い方を大事にしたい人は今日一日を大切にすることも重要。

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まとめると、

◆すぐに切り出す
木を切る(8時間):残るのはボロボロの斧
◆斧を研ぐ
研ぐ(6時間)木を切る(2時間):残るのは鋭い斧

同じ8時間を使うとしても、あとに残るモノに大きな差が生まれます。あとのこと(将来のこと)を想像して備えることが出来るのです。

 

・未来の可能性を予測した準備しながら行動する。
・アウトプットが、継続して使えるのか自問する。
→ YESならOK
→ NOなら別のやり方を考える!

 

未来を読むことから始めよう

日常生活ではどのように活用できるでしょうか。

仕事におきかえてみると、労働後に得られるモノ、所有するモノが高い価値をもつように時間を使うことが効率の良い方法です。

 

目の前に与えられたことだけをみて行動するだけでは将来の社会変化に対応できません。

また、目に見える範囲の成功しか得られません。

 

できるだけ情報をあつめて、想像しうる機会に備えることが自分をさらに大きな成功に導いてくれます。

AI、IoT 、仮想通貨など、、、この激動の社会では与えられていたはずの”木”さえ突如なくなることがあるかもしれません。

 

この社会に対して鋭い斧をつくりだし、想像し得る未来に備えることが成功の秘訣です。

 

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最後に、リンカーンの略歴を紹介します。非常に長くなってしまったので最後に書きます。

リンカーン略歴

1809年

アメリカ合の農場夫婦のもとに誕生。両親は、農場2か所と町の数区画、家畜や馬を所有するほど、郡内でもっとも裕福な者の部類に入っていた。

1819年

リンカーンは幼い頃に辺境の生活に伴うきつい労働を好まなかった。10代になって長じるに連れて、家事を行ううえで少年に期待されるあらゆる雑用を進んでこなすようになった。

1831年

父は再度イリノイ州コールズ郡への転居を決めるが、大望あるリンカーンは一人で生きていくことを決意する。この時、リンカーンは22歳。

1832年

ニューセイラムに小さな雑貨屋を借金で購入。経済は上り調子だったが、事業は難しく、リンカーンは最終的に持ち分を手放す。

ニューセイラムでの最初の冬に、リンカーンはニューセイラム討論クラブの集会に出席し始め事や、店や製材所、製粉所を切り盛りする効率の良さ、彼自身の自立していく努力もあって、間もなく町の指導者であるジョン・アレン博士、メンター・グラハムおよびジェイムズ・ラトリッジなどから敬意を持って迎えられるようになる。

彼らはリンカーンがこの町に利益をもたらすと考えて政治の世界に入ることを勧め、イリノイ州議会議員候補者になることを宣言し、政治との関わりを始めたが、この時は落選し、立候補者13人のうち8位(上位4位までが当選)だった。

リンカーンはニューセイラムの郵便局長を、さらに後には郡測量士を務め、その間も貪欲に読書を続けた。その後、弁護士になる決心をし、ウィリアム・ブラックストンの『イギリス法注釈』など書籍を読むことで法律を独学し始めた。その学習方法について「私は誰にも付かずに学んだ」と語る。

1834年

州議会議員へ2度目の出馬。この選挙ではリンカーンが第2位の得票数を得て当選。この時、多くの聴衆に向かって話す際に一番端にいる者にも聞こえるようにと発声を鍛錬する。

1836年

法廷弁護士として認められ、スプリングフィールドに転居。後に妻となるメアリーのいとこのもとで法律実務を始める。反対尋問や最終弁論では手強い相手という評判を取り、有能で成功した弁護士となる。

1842年

スプリングフィールドにあるメアリーの姉妹が嫁いでいた邸宅で結婚。

1846年

ホイッグ党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出され、1期2年間を務めた。

1848年

ホイッグ党大統領候補指名選挙では、ヘンリー・クレイでは勝ち目がないと理解し、下院で1期のみ務めると誓っていたリンカーンはザカリー・テイラー将軍を支援。

テイラーが当選し、リンカーンは土地利用局のコミッショナーに指名されることを期待していたが、この職は同じイリノイ州出身のライバルであるジャスティン・バターフィールドに行く。

下院任期終了時、テイラー政権はリンカーンに論功行賞としてオレゴン準州の州務長官あるいは知事の職を用意。

この遠隔の地は民主党の強い地盤であり、それを受ければイリノイ州での法律と政治の経歴が終わりになると判断したリンカーンはそれを断り、スプリングフィールドに戻り、活動的なホイッグ党員のままではあったがその精力のほとんどを弁護士の活動に向ける。

1851年

イリノイ州最高裁判所に175の訴訟で出廷。そのうち51件は単に助言、31件で有利な判決が出る。

1858年

上院議員候補に指名される。聖書のマルコの福音書から引いた「分かれたる家」演説を実施。

「分かれたる家は立つこと能わず。半ば奴隷、半ば自由の状態でこの国家が永く続くことはできないと私は信じます。・・・私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。」

イリノイ州議会での上院議員選出でリンカーンはダグラスに破れるが、選挙活動におけるリンカーンの雄弁さと歯切れの良さは彼を全国的な政治家に押し上げる。

1859年

リンカーンはドイツ語新聞「イリノイ・シュターツ・アンツァイガー」を買収。この新聞は一貫してリンカーンを支持し、州内13万人のドイツ系アメリカ人の大半は民主党に投票したが、ドイツ語新聞が動員できる共和党の支持票もあった。

1860年

ニューヨーク党指導者がリンカーンを招待し、党員達の前でクーパー・ユニオン演説を行わせる。

共和党イリノイ州大会で、リンカーンは州推薦大統領候補に初めて指名され、シカゴで開催された共和党全国大会で、共和党大統領候補に選ばれる。

リンカーンの成功は奴隷制問題で穏健派であるという評判、内国改良、保護関税というホイッグ党時代からの政策を強く支持したからだった。また、ペンシルベニア州の代議員団がリンカーンに鞍替えしてトップに押し上げたのも要因にあがる。ペンシルベニアの産する鉄に関する利益が保護関税によって保証されるからだった。

大統領選挙において、ダグラスなど他の候補者が独自の選挙運動を展開する中、リンカーンだけは選挙演説を行わなず、多数派工作を行い、大量の選挙ポスター、小冊子および新聞論説を制作するという下働きを行う。多数の党員演説者がおり、まず党の綱領に焦点を当て、続いてリンカーンの経歴を話し、特に少年時代の貧窮を強調。普通の農家の少年がその努力によって国のトップまで上り詰めることができるという「自由労働者」のすばらしい力を示し民間の注意を集める。リンカーンの生涯を詳述する小冊子は、10万部から20万部を販売された。

11月6日、リンカーンはダグラス他、有力者エオ破り、第16代アメリカ合衆国大統領となる。リンカーンは支持の強かった北部と西部の州を獲得したことで勝利しており、15州あった南部の奴隷州のうち10州では一票も得られず、南部の996郡の中では2郡を制しただけだった。

1861年

奴隷分離主義者達はリンカーンが大統領に就任する前に連邦から脱退する意思を明らかにする。妥協の試みはとられたが、サウスカロライナ州が脱退条例を採択したことは皮きりに、各州が続く。これらのうち6州は1つの憲法を採択し、アメリカ連合国という主権国家であることを宣言。アッパー・サウスと境界州(デラウェア州、メリーランド州、バージニア州、ノースカロライナ州、テネシー州、ケンタッキー州、ミズーリ州およびアーカンソー州)は分離主義者の言い分を聞いたが、当初は追従を拒否。ブキャナン大統領と次期大統領のリンカーンはアメリカ連合国の認知を拒否し、脱退を違法だと宣言。しかし、2月9日、アメリカ連合国はジェファーソン・デイヴィスを暫定大統領に選出する。

リンカーンは2月11日にスプリングフィールドからワシントンに向かう際、送りに来た地元の人たちに別れの挨拶を述べる。

「皆さん、私の今の立場におかれたことのない方にはこのお別れに際しての、私の悲しみは解っていただけないでしょう」

と述べ、

「今私はこの土地を去ります。いつ帰れるか、果たして再び帰れるか、わかりません」

と悲壮な思いをこめて語る。

3月4日、就任式でリンカーンは南部の市民に向けた第一次大統領就任演説を行い、再度南部州における奴隷制を廃止する意志も意向もないと強調。

「部諸州の人々の間には、共和党が政権を掌握したために、彼らの財産と平和と個人の保障が脅かされようとしているという危惧があるように思われます。・・・私は、奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたいという意思はない。」

南部州が連邦からは脱退できないと述べた後、人民の権利を語る。

「この国もその制度も、この国に居住する人民のものであります。国民が現在の政府に飽きてきた場合には、いつでも憲法上の権利を行使して、政府を改めることもできますし、あるいは革命権を行使して、政府を解体し打倒することができるわけであります。」

さらに南部の人々に対する次のようなアピールで演説を締める。

「われわれは敵同士ではなく、友であります。われわれは敵であってはなりません。・・・神秘なる思い出の絃(いと)が、わが国のあらゆる戦場と愛国者の墓とを、この広大な国土に住むすべての人の心と家庭とに結びつけているのでありまして、・・・再び触れ(奏で)られる時、その時には連邦の合唱が重ねて今後においても高鳴ることでありましょう。」

4月12日、南軍はサムター要塞の連邦軍守備隊を降伏させ、戦端が開かれるが15日、サムター要塞を取り返し、「連邦を守る」ために各州に総計75,000名の軍隊を立ち上げるよう呼びかける。この呼びかけで各州はどちらに付くべきかを判断させられることになる。

サムター要塞が陥落の後、リンカーンは直接戦争を指揮することと反乱を鎮圧するために全体戦略を策定することの重要性を認識。前例のない政治的および軍事的危機に直面し、前例のない権限を使う最高司令官として反応し、アメリカ連合国の同調者と見なされる者を数多く逮捕させ収監させる。また、南軍の戦争遂行を支援するために使われる奴隷を没収し解放する司法手続きを認める没収法に署名。

1862年

リンカーンは奴隷解放宣言によって黒人(混血のものも含む)の奴隷を解放したことで賞賛される。しかしながら、リンカーンは本来奴隷解放論者ではなく、実際には連邦軍によって制圧された南部連合支配地域の奴隷が解放されただけであって、奴隷制が認められていた北部領域では奴隷の解放は行われなかった。連邦議会は合衆国すべての領土で奴隷制を禁じる法を成立させ、7月には反乱者を助けたことで有罪とされた者の奴隷を解放させることのできる司法手続きを定めた第二次没収法を成立させる。リンカーンは各州内で奴隷を解放させる権限は連邦議会にないと考えていたが、議会に敬意を表してこれらの法案を承認。これらの行動は憲法で大統領に認められている戦争遂行権限を行使する最高司令官によって行うべきものと感じており、その計画を立てる。同じく7月、リンカーンは閣僚達と奴隷解放宣言の初稿について議論する。

1863年

1月1日に奴隷解放予備布告を有効化。当時北軍の支配下にはなかった10州の奴隷を解放し、すでに北軍の支配下にあった2州は除外することを宣言。反乱州の奴隷制を廃止することが軍事目的となると、北軍が南部に侵攻するにつれて、多くの奴隷が解放され、最終的には南部の300万人を超える奴隷が解放。奴隷解放宣言に署名する際、「私はこの生涯の中で、この書面に署名するときほど正しいことをしているという確たる気持ちを持ったことはなかった。」と述べる。

奴隷解放宣言後、元の奴隷を軍隊で用いることは政府の公式方針となった。当初リンカーンはこの計画を全面的に行うことを躊躇したが、春までに「黒人部隊の大量徴兵」を始めさせることになる。リンカーンは、戦争の発生だけが大統領に合衆国内にすでに存在する奴隷を解放する憲法上の力を与えたと主張して、戦時立法として宣言に署名した。「反乱州」における奴隷制度を廃止した宣言は公式な戦争の終結につながり、それは奴隷制の廃止と連邦での市民権の確立に関するアメリカ合衆国憲法修正条項第13条および第14条制定の推進力となる。

7月のゲティスバーグの戦いにおいて、北軍が大きな勝利を収め、リンカーンは共和党の強い支持基盤を維持し、戦争遂行を再定義できる強い立場を得る。これが、ゲティスバーグ戦場墓地で演説を行う機運となる。11月19日、ゲティスバーグの演説を実施。この演説は、わずか272語、3分間と短いものであったが「自由の精神にはぐくまれ、すべての人は平等につくられているという信条に献げられた」と主張し、アメリカ南北戦争をこれら「自由」と「平等」の信条に捧げられるものとして定義。「人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させない」と民主主義の基礎を主張。南北戦争が豊富な目的を持っており、この国における新しい自由の誕生と結論付ける。

1864年

奴隷制の修正案は、6月15日に下院の3分の2以上を獲得できずに通過させることは叶わなかったが、来たる大統領選挙に向け、新しく全国統一党という党名で出馬。全国統一党はリンカーンが奴隷解放を中心議題に据えたことで、統一され活性化された。リンカーンは3州を除いた全州を制し、北軍兵士の票の78%を得て、圧勝で再選される。

1865年

第二次大統領就任演説を実施。戦争の両軍が被った大きな損失は神の意志だとし、平和への努めを呼びかける。

「われわれがひたすら望み、切に祈るところは、この戦争・・・が速やかに過ぎ去らんことであります。しかし、もし神の意思が、奴隷の二百五十年にわたる報いられざる苦役によって蓄積されたすべての富が絶滅されるまで・・・「主のさばきは真実にしてことごとく正し」といわなければなりません。なんびとに対しても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって、・・・努力をいたそうではありませんか。・・・正しい恒久的な平和をもたらし、これを助長するために、あらゆる努力をいたそうではありませんか。」

4月1日、ファイブフォークスの戦いでピーターズバーグをほぼ包囲、4月9日、アポマトックス・コートハウスの戦いで連合軍が降伏し、事実上戦争は終わる。

全州には適用されなかったが、奴隷解放宣言の発布後、リンカーンは憲法の修正によって全国に渡り奴隷制を違法とさせるよう連邦議会に対する圧力を強化する。

4月14日、フォード劇場で観劇中に拳銃で後頭部を撃たれ、翌日15日に死亡。国旗に包まれたリンカーンの遺体は、無帽の北軍士官たちによって雨の中をホワイトハウスまで護送される。その間、市中の教会の鐘が鳴り響いたという。その後、リンカーンの棺は特別列車に乗せられ、北部の各都市を回ってスプリングフィールドに向かう。リンカーンに弔意を捧げるために訪れた人は数十万人といわれる。

死後、奴隷制の2回目の提案が議会を通過。批准を求めて各州議会に送られた。この批准が成立し、アメリカ合衆国憲法修正第13条は1865年12月6日に憲法に追加される。